読書 vs TV鑑賞


我が家は読書量が多い、と書いたが、冷静に僕と妻の休日の過ごし方を見ていると、僕の場合は、読む、弾く、走るの繰り返しで、妻は読む、描く、考える、の繰り返しだ。HDDレコーダーで録画したものを見る以外はあんまりテレビは見ていない。

一般的に読書の方がテレビを見ているよりも知的な活動だと受け入れているようだが、個人的にはそうは考えていなくて情報を手に入れる行為として同等だと思っている。手段が少し異なるだけで、テレビと読書が違うというのはばかばかしい、というのが私の見解。自分の中でどの情報が欲しい、と分かっていたら見る、または読むのが当然だ。

昔から親が子供に言う「テレビ見ている暇があったら本を読みなさい。」という言葉は、テレビと本の内容によっては全く意味を成さない言葉であり、実際小学校低学年にしか通用しないだろう。

また、読書というものは、机に向かって紙と鉛筆で自分の考えをまとめ、戦略を練っているプロセスと比べると全く生産的な行動ではなくて、第3者に提供された情報を頭の中に流し込んでいるにすぎない。

テレビとは異なり、読書は情報を咀嚼する時間があると思われるが、考えを紙に書いてまとめる様なプロセスを踏まない以上、頭に情報を流し込んでいるにすぎない。

それに比べてテレビはまさに「流しそうめん状態」かというと、やはり映像の説得力はあって、咀嚼の時間を無意識のうちに節約できているのだろう。しかし、自分の考えをまとめるプロセスを踏まなくては上記の読書と一緒である。

人間には知的好奇心という本能があり、ちょっとしたことでも知りたいと思う。しかし悲しいかな、年をとって自分の社会的な責任が重くなって行くにつれ、アウトプットがない知識集めはテレビ鑑賞、ただの読書と同等になってしまう。極論を言うと戦略のない(アウトプットを意識しない)勉強はテレビを見ているのと同じである。

まとめると、常に自分の中に目標があって無意識のうちに自分で戦略を立てて、情報を集め、またそれらを分析して戦略をreviseする、の様なアプローチで無いと駄目なんですね。しかし、こんな自分も「冥王星の外にもう一つ惑星が見つかった。」というニュースを聞くとかhttp://wherethehellismatt.com/みたいな活動(?)を見るとうれしくなってしまう。いつも全て行き着く先は”バランス”なのですが・・・。

と、某所から頼まれている原稿を書くにあたって自分の考えをちょっと書き下ろしてみました。

(ちなみにダラダラとバラエティー番組などを見て過ごすのは論外です。そういうレベルの話をしているのではありません。)

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