2018年4月 生活サイクルに大きな変化が

2018年4月 次女の保育園卒園とともに、長女・次女と続いた8年間の保育園の送り迎えが終わり、生活が大きく変わりました。

今までは、子供を起こさない様に、朝3時起き8時過ぎに就寝、というサイクルでやってきました。

朝7:15に子供を保育園に預けて、7:45に大学に到着、17:30過ぎに必ず大学をでて、保育園に子供を迎えに行くという生活でしたが、子供達が朝の送りが無くなり、自分の好きな時間に家を出ることが可能になりました。

家事の手伝いをしつつも、この時間に余裕が出来る(自分で時間を選べる)というのはとても心にゆとりを与えてくれています。

朝、心がきれいなうちに(笑)、ギターに触れる余裕も出てきました。
非常に変化が大きい時期を過ごしています。

競争を避ける

硬直したシステム、ルールの中でパイを取り合おうとすると、あっという間にドロドロの競争になる。

自分はむしろ硬直したルールの中での競争を避け、自分なりに新しい、既存のルールでも多少評価してもらえて、何よりもそれを生み出す過程が楽しめる事をやろうとしています。そのための努力はそれなりに厭わない。

そういう意味では私は競争を逃げているし、そのおかげで過当なストレスも無い。一生をかけたブルーオーシャン戦略だ。是非学生にも伝授したい(笑)。

私がこんな時代にも博士課程進学を勧めるのはその様な理由もあります。単純に大企業に中途半端な実力で就職しても、既存のルールでグローバル化した市場で戦っていかなくてはいけない。個性を殺して競争に参加しなくてはいけない。

むしろ、全く新しい価値を生み出す仕事に夢中になる方が、明らかに楽しい。指導教員の与えたテーマで終わってしまう事が多い学部、修士課程から、新しい価値を世に問う練習(実際には練習ではないけれど)、柔軟さを身につけることが出来る博士課程は、今後の社会を快適に生きるのに必要なトレーニングの場になってくれると思う。少なくとも私はそういう場を与えたい。

P.S. よく考えたら、私の博士過程の同僚は技術営業、特許事務所、銀行員、IT企業社員と多彩だ。奇妙な経歴が自分のポジションを得るためのサポートとなっている。

では、何を学ぶべきかというというに対する解答

なたまめ
就職活動について学生と話した、在学中に何をすべきか? から続きます。
では次に、「では何を学んでおくか?」という議論になる。

もちろん、それは自分がどの様に社会で活躍していたいかということに関してイメージを持っていなくてはいけない。

明確ではないにしろ、目標がなければ始まらない。理系の大学院ともなると、研究・開発に関わる仕事が大部分だと思うが、大部分の人が選択する「企業で研究開発を行う」という、キーワードのみで考えると一気に視野が狭くなってしまう。

10年後位を見据えたシーズを探索するような研究か、製品開発なのか?技術サービス・営業のような仕事をしたいのか?知的財産を扱うような仕事がしたいのか?もしくはそれらを全て行いたいのか?

顧客とのコミュニケーションを通じて製品を作っていくような仕事か、社内の技術者達とひたすら自分たちの技術を磨くようなスタイルで研究を行いたいのか?

そしてそれは企業への就職という選択でよいのだろうか?サイエンスライターなど最先端の科学・技術と社会を結ぶ仕事も多数存在するし、政府・官庁も科学・技術に理解のある人財を求めている。

5年、10年後に仕事は自分にとってどの様な意味を持っているか?自分の家族に自分の仕事について誇りを持って語ることが出来るのか?

結局、自分はどの様なライフスタイルを求めているのか?という問に帰着するような気がするが、やはり自分と真剣に向かい合って、そこで自分が何をすべきかきちんと考えた上で、何をすべきかを自分なりに決定し、そして根気よく実行した学生が卒業して5年、10年たった後、生き生きとしている。(私の同級生、教え子を見ると)

現在は様々な選択肢を自分の今ある知識でシミュレーションしてみると、自分が何を身につけるべきかだけではなく、自分が潜在意識の中にある自分が求めているライフスタイルなども浮かび上がってくる。

これは私が大学卒、修士卒、博士号取得後に行ったことである。是非、頭でぼんやり考えるのではなく、紙と鉛筆を持ってやってみて欲しい、ということを学生に伝えた。

次は「人生はシミュレーション通りには行かないけれども、トレーニングによって身に付けた能力には以外に無駄なことは少ない」と感じた私のケースについて書こうと思います。

娘1歳の誕生日、この2年を振り返る

Miori
娘1歳の誕生日。

妻の妊娠以来、2年を振り返ると非常に感慨深い。

妻の妊娠
まず、妻がアルコール、カフェインを完全に絶つところ始まり、私はその周りであたふたとする毎日。とにかく何を準備して良いのか分からなかった。

妻のおなかが大きくなってからは、とにかく私は家事を手伝うように心がけたつもり。つわりも食べ物を受け付けなくなるほどにはきつくなかったようだ。フレンチポテトとイチゴが妙に食べたくなったようで、私もつきあって毎日のように付き合って食べていた。

産休も問題なくとれたようで、産休に入ってから妻はかなり楽しんでいたようだ。コンサートにも行っていたし。妻はかなりリラックスして出産を迎えられた方だと思う。

男は結局、妻の妊娠中は家事手伝いをしっかりやると言うことが一番良い。何か準備しようと思ってもよく分からないので、必要な物をその都度そろえた方が良いと分かった。

子供を持つ知り合いがいると、いろいろもらえて非常に助かる。ちなみにうちの子の衣服はほとんど買っていない。

出産
出産は私にとってまさに男の無力さを思い知らされた(笑)。「出産の立ち会いは必要ない」と宣告された(笑)私は、待合室で気を紛らわすために、de Genneの「表面張力の物理学」を読み、研究会の参加者への連絡メールを書いていた。そして去年の今日、14:03に娘が産まれたわけです。妻の回復も非常に早く、産まれた当日から娘と同室だったようです。そしてその夜のおむつの交換が7回だったそうだ。

私は父親、弟と藤が丘のホルモン焼き屋に。うちの父親はホルモン屋の店員さんにチップを渡していた(笑)。

産後も経過も良く、丁度夏休み時期であったので、私は早めに大学の仕事を切り上げて、毎日病院に向かった。1,2時間おきの授乳は大変そうであったが、産婦人科の雰囲気も良く(妻にとってはインターネットが使えたのが良かったらしい)、食事も美味しく、先生、スタッフがとても親切だったので、妻はかなりお気に入りだった様子。
ワキタ産婦人科
http://www.wakita-sanfujinka.com/

育児スタート
最初の2ヶ月は等々力の私の実家で妻と娘は過ごした。弟の部屋をきれいにして使わせてもらった。私は当初は藤が丘と等々力の滞在を半々くらいにしようと思っていたのであるが、結局我が子見たさにほとんど等々力に泊まることになった。父親、弟と飲む機会が妙に増えた。(これをきっかけに等々力の居酒屋をかなり開拓することになる)数時間おきに強制的に起こされるという生活は人生で初めてであったので、最初は体調を崩しそうになったが、これも慣れてきた。

藤が丘の自宅に帰ってきてからは、娘との寝室は別となり、娘はだんだんよるまとまって寝るようになってきたので、妻にとっては楽になってきたと思う。

1週間に1回でも良いので4-5時間、妻が育児から開放される時間があると、精神的にも楽になる。私の妻はPocket WifiとノートPCを持ってCafeに出かけていってリラックスした時間を楽しんでいました。

仕事との両立
私の場合幸運だったのが、子供が産まれる前後は論文執筆が主要な仕事になっていたことである。この仕事はノートPCさえあれば出来るので、比較的早い時間に帰宅し、娘をお風呂に入れてから、自室で仕事を進めることが出来るようになった。

また、育児と研究を両立するためには(私も未だ模索中であるが)、集中力が最も重要である。私の場合、娘を保育園に預けて(7:30)、大学に到着(8:10)分から娘が寝る前に帰宅し(19:30)、お風呂に入れるまでの時間しか職場で仕事をする事が出来ない。特に実験に関してはスケジュール通りに行かないことが多く、途中で中断し翌日に持ち越す事も多くなった。「如何に遊んでいる時間を減らして、効率を上げるか?」一方、効率追求のみでは、現在自分に出来ることのみに集中しがちになる。新しい研究の展開のためには、少々冒険をする必要があるので、どの様なバランスで研究を進めるかはtrial & errorのまっただ中です。

いずれにせよ、論文を書くネタがあるのは幸せなことで、あと3報の論文を書いて現在のところ手元のデータは無くなります。もう少し執筆中心の生活。

次は実験が多くなってきたときにどの様に家庭と両立させるかについて書きましょう。

留学で得たもの

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最近、修士の学生に留学のメリットについて尋ねられる機会が多々ある。

私も急に尋ねられても自分の中のまとまった意見をうまく簡潔に答えることができないので、ここでうまくまとめておくことにする。

今考えて、かけがえのない二つの財産は
1. マイノリティーとして生きた経験
2. トラブルに対し、冷静に状況を客観視して対処出来ること
の二つだろう。

留学先のドイツでは言語、文化、そして行動、考え方、生活習慣など、大部分で自分がマイノリティでないことに気づく。それ故生活の至る所にいつもプレッシャーがある。生活では買い物をする時、電車に乗っている時の不安、職場では速いペースのディスカッションについて行くためのプレッシャーが大きかったことを覚えている。学位審査では「準備のために自分が見逃していることがあるのではないか」という不安が数ヶ月続いて、かなり疲弊した。

マイノリティーとして生きている間は、単純に自らの生存のために集中する時間が長くなり、いわゆる「調子こいた」状態はあり得ない。私にとってはその3年間のプレッシャーが自分を打たれ強くしてくれた。自慢ではないが、何かかうまくいかない時、私はヘコむ時間は非常に短く、やるべき作業に集中できる方だと思う。生き残っている研究者もその様な資質を持った人が多い。今考えると研究者としてのキャリアのためには有意義なトレーニングだった。

自分を客観視できる点に関しては、文化的にも地理的にも日本から切り離されたことが大きい。私は自分のステップアップのために外国に乗り込んで行ったが、ふとした時に見つける真実は「どこに行っても、その土地に住む人の生活がある」というものだけだった。「自分の人生も生活も特別な物ではなく、いずれ死する人間という消耗品のひとつ」と考えたときに、肩の力が抜けた(笑)。

肩の力が抜けた状態で、外国人局での手続き、大学の事務手続きなど、外国人にとって疲弊する様々なプロセスを淡々とこなしていった。この状態になったのは日本を出てから8ヶ月くらいだったと思う。研究上のトラブルも自分の成長のネタとして、受け入れることが出来るようになった。このattitudeが身についたのは私にとっての財産である。

もちろん、英語、ドイツ語などの外国語の能力、論文執筆、外国人研究者とうまくミッションを遂行する能力、など様々なメリットがあるが、自分の人生でかけがえのない財産は上記2つであると思う。